楽しい啾々

しりとりの利権を得て印税で暮らしたい

からだがしびれてうごけない

だからさ、もうわかってんの。

小難しいことした焦点の小さい表現より、

分かりやすくてポップな表現じゃないと手に取ってもらえないの。

前者でやっていけるのは天才か、

綿密な計算ができるやつじゃないとダメなの。

 

わかってはいるんだけどね。

湧き出てくるものを変質させられるほど器用ではない。

 

「やろうとおもえば狙ったものなんて作れるんだよ」

 

そうですか。

しっかり時間をかけて適切な積み重ねればできるかもね。

それはifルートAの話。

残り99個のifルートB〜DOは消滅。

Excel的なね。

 

必ずしも自分の外に出すのが表現ではないとは思うの。

自分で生み出したものを、自分で鑑賞するだけで十分満たされる。

 

ただ、なんでだろうね、それを共有したいとなると話は別。

急に分かりやすさ、受信する側の立場、発信する側の立場、マーケティング

そういう類のどうでもいいことを強要される。

それはどうも、発信する側の義務らしい。

 

先人が遺した偉大なるノウハウ。

私には喧しくてたまらない。

このリンゴ美味しいよって渡して食べてもらう。

感想をもらう。

欲しくないなら「いりません」の返事だけでいい。

単純な話、それで十分。

ところがどうだ、

手渡したリンゴを眺められ、萎れている、蜜が少ない、色は悪くない、どこ産なのか、

しこたま言葉を並べられた挙句、

切り分けたリンゴをスッと地面に置かれてさようなら。

それなら普通に返してよ。

汚れる前に美味しく食べたかったな。

拾いながら、土を払いながらそんなことを思う。

 

私はただ、おいしいリンゴを食べて欲しかっただけ。

そしてできるなら、おいしいねって笑い合いたかった。

 

心無い理論武装に蔑ろにされるくらいだったら、最初から独り占めした方が良かったのだろうか。

ううん、そんな悲しく乾いた世界は嫌だ。

あっちはあっちで迷ってんだろう。だから必死で蓄えた知識だ。万能じゃないがね。

迷える羊同士、手を取り合って一緒に迷えたら、どんなに楽しいだろうか。

 

どんどん一日は早くなっていく。そして同じ速度で萎れていく感じがする。ずっと喉は乾いている。

電磁波を浴びた訳ではないし、比べてみれば少し前より自由になった。

だけどなぜか、少しだけ心と体がズレているような気が、ほんの少しだけする。

ふっしぎー!